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和歌山地方裁判所 昭和32年(わ)55号 判決

被告人 岡村義夫

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、「被告人は南海電気鉄道株式会社高野線の電車運転士であるところ、昭和三一年五月七日午後二時一〇分極楽橋駅発難波行準急行第四、四〇二号(第一、二八三号電動車を先頭に、第一、八九四号附随車第一、二八二号電動車の三輛編成)の電車に乗客二百数十名を乗車せしめて運転発車し、午後二時一四分頃紀伊神谷駅に到着、約三〇秒停車後直に電動ノッチ一を入れて発車し、間もなく同ノッチ二を入れて進行したが同駅より紀伊細川駅に至る路線は一、〇〇〇分の五〇の下り勾配となつているので、再生制動機を使用すべく約二〇米進行した際電動ノッチをオフにし、時速二〇粁で約二三米進行した後約二〇米進行する迄の間に再生制動ノッチを逐次一から五に入れたが、再生制動の働きが通常顕はれるべき約七五米進行した地点に至るも速度上に再生制動の働きが顕はれず、且再生指示灯も点灯せず益々加速して同所より約五六米進行した地点においては制限速度を超過する時速三二粁に達した為、先頭第一、二八三号車の再生制動機に故障がありLS3が作動していない疑があることを知つたのであるが、斯る場合電車運転士たるものは引続き同車の再生制動機を使用すれば抵抗器等が加熱して発火する危険があるので直に空気制動によつて急停車をなし、先頭第一、二八三号車を故障車として取扱い、同車の主開閉器(MS)及び電動機開閉器を切断した上空気制動機と最後部第一、二八二号車の再生制動機との併用により最寄駅迄運転を継続すべき業務上の注意義務があるにも拘らず、不注意にも右の如き適切なる措置を執ることを怠り、迂濶にもダイナミックになる直前の現象なるやも知れずと軽信して同所で空気制動により時速一七粁に減速しながら約五〇米進行し第一八号墜道(長さ約一八〇米)に差しかかつた際再び右故障ある第一、二八三号車の再生制動ノッチを一、二と入れた為、同車の再生制動機は紀伊神谷駅発車後故障を生じLS3単位開閉器が切断されないままであつたので過電流がLS3を通じて逆流しS3S4の抵抗器が加熱し、同抵抗器に隣接するK6RR4抵抗器間の絶縁物を破壊して短絡焼損し強烈な火花を発するに至つたので直に空気制動を使用して数十秒後に同墜道内に停車したが、右火が車体に焼え移り更に第一、八九四号車第一、二八二号車と順次延焼全焼せしめてこれを焼燬し、右火災から退避せんとした乗客水落かつの(当時七〇年)を車外に転落せしめてショック死するに至らしめた外、同火災の火煙による刺戟又は災禍を免れるべく退避しようとして大混乱を生じた結果乗客森清春外四六名に対し治療三日乃至三ヶ月を要する傷害を夫々負わせた」と言うのである。

仍て考えるに司法警察職員作成の実況見分調書(1)、下井関信市、大谷房夫の各司法警察員に対する供述調書、被告人の司法警察職員に対する昭和三一年五月一九日付同月二三日付各供述調書、医師牧野兵庫作成の死体検案書、森繁春こと森清春外四六名に対する各医師の診断書によると、昭和三一年五月七日被告人運転にかかる極楽橋駅発難波行(上り)準急行第四四〇二号列車(第一、二八三号電動車を先頭に第一、八九四号附随車、第一、二八二号電動車の三輛編成で乗客二百数十名が乗車していた)が紀伊神谷駅を午後二時一四分頃発車して紀伊細川駅に向う途中第一八号墜道(長さ約一八〇米)の入口より約五米進行した地点で先頭第一、二八三号車の中央床下に装備した単位接触器群の附近より強烈なスパークを発し、これが為乗客が一斉に騒ぎ出して停車を要求する等混乱を生じたので、已むなく空気制動によつて急停車の処置を執り墜道入口より約九一米進行した地点で停車せしめ直にパンタグラフを下降して架線電流を遮断する処置を執つたのであるが、右スパークは尚止まず、これより第一、二八三号車の車体に焼え移り更に第一、八九四号車、第一、二八二号車に順次延焼し、この間被告人は車掌大谷房夫並に同乗していた助役下井関信市等と協力して消火に努めたが火勢は一向衰えず遂に右車輛全部を全焼したこと、右火災事故により乗客水落かつの(当時七〇年)が車外に転落してショック死に至つたほか、森清春外四六名の乗客が夫々治療三日乃至三ヶ月を要する傷害を蒙るに至つた事実が認められ、そして右火災の原因は前記紀伊神谷駅発車直後右第一、二八三号車のLS3単位接触器が、これを作動せしめる電磁弁の故障によつて遮断されていなければならない条件下に接触したままの状態にあつたところ、後記認定の通り被告人が再生制動機を使用した為再生主回路中のMG BSの各スイッチが接触して架線からの電流が右LS3単位接触器S3S4端子間の抵抗器並にMG BSの各スイッチを経て線路に逆流しこの為右S3S4端子間の抵抗器を過熱して遂に熔断するに至り、更に隣接抵抗器K6RR4間にある絶縁物をも破壊するに至つたことによるものであることは大阪府警察本部刑事部鑑識課技師細井三郎同増井一郎共同作成にかかる鑑定書、第五回公判調書中鑑定人増井一郎の供述、鑑定人細井三郎の当公廷における供述、第六回公判調書中証人城野喜十郎の供述、同証人並びに証人宮崎勉の第八回公判廷における供述の各一部並びに押収にかかる証第九号運転事故届書を総合してこれを肯定せざるを得ない。

よつて右の事故が被告人の過失に原因するものかどうかを検討するに先づ順序として右発火に至るまでの状況を見るに、上ノ山正の司法警察職員に対する供述調書(三通)、大谷房夫の検察官に対する供述調書、森中忠義、岡本幸一郎、岩本満春の各司法警察職員に対する供述調書、石井美治の司法警察職員に対する供述調書(二通)並に検察官に対する供述調書、司法警察職員作成の実況見分調書(1)被告人の司法警察職員に対する昭和三一年五月一九日付、同月二九日付各供述調書並に検察官に対する供述調書(二通)によると被告人は高野下駅において下り第四、一〇一号列車(先頭第一、二八二号電動車、第一八九四号附随車、最後尾第一、二八三号電動車の三輛編成)として本件電車の引継を受け、その際前任運転士森中忠義から異常なしとの申送りであつて引続き極楽橋駅迄運転する間別段異常を認めなかつたところ同駅に到着すると検車係石井美治から「検車区長から第一、二八三号車のノッチテストを行う様連絡あつたのでテストする」旨告げられ、同列車をホームより約五〇米引出して第一、二八三号車の中央床下附近に設けられた接触器群のカバーをはずしてノッチテストが行われた。而して同駅において行われる毎日検査(列車到着毎に行う車輛点検)は同駅には設備が充分でない為車体の外見的な点検のみを行うのが通常で特に運転士より故障等により検査の申出があつた場合に限り故障個所の検査を行うことになつているのであるが当日の石井検車係による右テストは平素の毎日検査とは異り特に第一、二八三号車の接触器関係について検査が行われ、被告人も右検査に立会つたものである。

然し右テストの結果は各接触器の作動に異常なく、被告人はその旨を同検車係から報告された。斯して右列車は上り第四、四〇二号列車となり、被告人の運転によつて同日午後二時一〇分同駅を発車して紀伊神谷駅に向つたが途中下り勾配があつて再生制動機を使用したところ何等異常を認めず正常に制動効果が顕われた。そして紀伊神谷駅を電動ノッチ一で発車し続いて同ノッチ二を入れ、間もなく一、〇〇〇分の五〇の下り勾配となるので再生制動機を使用する為同駅から約二〇米進行した地点で電動ノッチをオフに戻し時速約二〇粁で約二三米進行した地点で第一、二八三号車の再生ノッチ一を入れ、更に約二〇米進行する迄の間に同ノッチを逐次五迄入れた。以上は同所において通常執られる運転方法であつたが、再生制動の効果が通常顕われるべき神谷変電所附近(同変電所は紀伊神谷駅から約一四〇米の地点である)に至るも速度上に制動効果が顕われず、又同所附近で通常点灯する再生指示灯も点灯しなかつた。そして同変電所から約五六米進行した地点では制限速度(時速三〇粁―証第九号運転取扱心得第五四条)を超える時速約三二粁に達したので空気制動を使用しながら約五〇米進行して第一八号墜道入口附近で時速約一七粁となり、同地点で再生制動ノッチを一旦オフに戻して直ちに同ノッチ一を入れ引続き同ノッチ二を入れたところその瞬間先に認定の通り第一、二八三号車の接触器群の附近から強烈なスパークを発するに至つたものなる各事実が認められる。そこで以上認定の如き状況のもとで、被告人が前記神谷変電所附近における通常顕われるべき制動効果が顕われなかつたことから同地点より本件火災発生迄の間に公訴事実記載の通り第一、二八三号車の再生制動機に故障があることを発見しこれより直に急停車して爾後同車を故障車として取扱うことが出来たか否かの点について考える。思うに車輛の点検、整備に関してはこれに専従する検車係が置かれ、電気車整備心得(証第五号)の定めるところに従つて整備を行い常に完全な車輛として運行せしめることが要請されているわけであつて、運転士としては乗客の安全輸送の為運転中と雖も、もとより車輛の故障の有無についても注意を払わなければならないけれども、一応検車係のなした検査の結果に信頼して運転業務に従事しているものと言えるのである。従つて本件の場合火災事故発生の数分前に始発駅極楽橋において石井検車係により特に第一、二八三号車の接触器関係について検査が行われ、これによつて被告人が同駅到着迄に右第一、二八三号車の再生制動機に何等かの異状があつたことに気付いたとしても、右検査の結果が異常ないと言うことであれば、被告人としては一応右検査の結果に信頼して爾後の運転に従事していたものと考えられるのである。尤も被告人の検察官に対する供述中には石井検車係による前記のようなノッチテストが行われたのでその結果異常なしと云うことであつたが、スイッチの動作の点を非常に気にしていた旨の供述記載が存するけれども(一〇三八丁)既に極楽橋駅より紀伊神谷駅に至るまでに再生制動機を使用して異常がなかつたことをも考えれば被告人は当時再生制動に故障なきものと信じて運転をしていた状況も窺えるので、右供述部分を以て直ちに被告人の不利な事実認定の資料とはし難いのである。そこで前記の如き状況のもとで、前記神谷変電所附近において、再生制動機を使用することにより通常制動効果が顕われるべきであるのにこれが顕われず、又再生指示灯も点灯しないと言う状態があつたわけであるが、この点について山田政太郎の検察官に対する供述調書第五回公判調書中鑑定人増井一郎の供述、同鑑定人の第一一回公判における供述、同細井三郎の第九回第一〇回各公判における供述、証人城野喜十郎、同宮崎勉、同下井関信市の各証言によると、再生制動機を使用して通常制動効果の顕われるべき地点に到るも、所謂ダイナミックの状態ではなくして、制動効果の顕われない場合も絶無ではなく、斯る場合運転士が再度再生ノッチを入れ直してみることによつて正常に制動効果の顕われる場合もあるので、電車運転士として再度再生制動の操作を試みるのは通常のことであり、かつかかる運転の取扱をしても電車には多くの保安装置があるので特に危険な処置とは考えられていないこと従つて一般に運転士としては一度再生制動機を使用したが所定の地点に到るも制動効果が顕われないことから直に右制動機に故障があると判断するものではないことが認められるのである。もとより、電車運転士は乗客の安全輸送がその使命であり、この為車輛に故障ある場合、これが発見に努めなければならないことは言う迄もないところであるけれども、証人宮崎勉の証言によれば、運転士は教習所における三ヶ月の基礎教育と引続き三ヶ月の実地教育を受けるのみであり、本件被告人も亦同様の教育を受けておるに過ぎず右短期間の教育後列車区長等より絶えず指導監督を受けるとしても右六ヶ月の期間に複雑な電車の構造並に諸機械の作用等を理解し、これが故障を列車運転中に適確に把握してこれに対処し得る程充分な知識を与えられているものとは到底考えられないし、又運転士は列車運転中はその進路における信号、踏切道、線路の状態を注視するほか(運転取扱心得第二七条)内規等に定められた運転に関する諸方式を遵守すべく要請されていることは多言を要しないところであつて、以上認定並に説明した諸点と本件事故の原因は複雑な電気的理由による発見の極めて困難な、然も異例なものであること更に本件事故が、紀伊神谷駅を発車してから一分数十秒、前記神谷変電所から二〇秒前後の間の出来ごとであること(この点は先に認定した列車の走行距離と当時の列車速度等より算出し得られる)等を考え併せれば、極楽橋駅において特にノッチテストが行われたと言う事情が加わつたとしても前記神谷変電所附近から本件火災発生に至るまでの間において右第一、二八三号車の再生制動機に故障があることを発見することは運転士として一般に期待し得られない場合であつたと考えられる。而して他に被告人において特に右故障を発見し得たと認め得るような状況は本件記録上存しないのである。(尚松川日出樹、山本稔の各司法警察職員に対する供述調書並に第六回公判調書中証人城野喜十郎の証言並に押収の仕業日報(証第二号)によれば、本件第一、二八三号車が本件事故の四日前である同年五月三日にもR3単位接触器の故障によつて抵抗器が過熱し発火しかけたことがあることを認められるが、被告人が本件事故発生時迄に右事実を聞知していたと認められる証拠は存しない。)なお被告人が神谷変電所附近において制動の効果が顕われなかつた際ダイナミックの状態になつていたものと考えた旨主張し、第六回公判調書中証人城野喜十郎の供述、押収の列車内規集(証第七号)中運転内規第一五条の規定によると再生制動の場合ダイナミックの状態になるとは再生ノッチを入れ、発生電圧が上昇し六二五ボルト、プラス、マイナス三ボルト即ち六二二ボルト乃至六二八ボルトに達したとき極性継電器の働によりLS3が入りになるが、右LS3が入りになるまでの間及び発生電圧が七〇〇ボルト以上に達し、過電圧継電器の働によりブザーが鳴りLS3が切りになり、次いで空気制動により減速し、発生電圧が六三〇ボルトに下降したときブザーは鳴り止み、次いで又再生ノッチを入れLS3が入りとなるまでの間を指称するのであり、本件の場合右何れにも該当しないものと認められ、被告人が当時ダイナミックの状態にあつたと考えたとすれば、その点誤りであつたと言わねばならないが、然し右認識の誤りは直ちに被告人の本件事故についての過失を意味するものでなく、このことも叙上の各認定を左右するものでない。なお又前記運転内規第六九条には運転中再生制動に故障を生じ、これを使用することのできない場合の措置について規定しているが、本件の場合は運転士たる被告人において未だ再生制動に故障あり、これを使用することができなくなつた場合であることを認識すべき段階にあつたと認められないので、右規定にも反しないものと言わねばならない。

以上の次第であるから右再生制動機の故障に基因する本件火災に就て被告人に過失の責を求め得ないものと考える。尚既に右火災について被告人の過失を認め得ない以上、右火災に基因して惹起されたとする水落かつの外四七名の乗客に対する業務上過失致死傷の公訴事実についても亦被告人の過失責任を認めるに由ないことは明らかである。

仍て本件公訴事実は何れも犯罪の証明がない場合に該当するので刑事訴訟法第三三六条後段の規定に則り被告人に対し無罪の言渡をなすべきものとし、主文の通り判決する。

(裁判官 中田勝三 林義一 早井博昭)

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